ケアマネージャーが思うことを呟いていくブログ

現職ケアマネ、前職社会福祉士、介護福祉士が福祉、医療、その他興味があることを書き捨てるだけの自己満ブログ

看護職員に求めること(特養)

特養に勤務する看護職員のなかには、病院勤務から転職してきた人が多いと思う。

そのような看護職員は、病院と施設のギャップに戸惑うことも多くあると思う。

治療第一から、生活第一の場へ役割を移し、人によっては物足りなさを感じる人も多いと思う。

特養は多くの場合介護職員が中心となりケアにあたる。

介護職員の下についたような気持ちになり辞めた人もいると聞いたことがある。

しかし、それは利用者と直接関わる時間が多いのが介護職ということであって、それなら看護職員が中心に利用者をみるかと言うと、それだと看護職員の役割とは離れてしまう。

介護職には介護職の、看護職には看護職の役割があるのだ。

恐らく、介護職より、または看護職より立場が上か下かを考えている看護職、または介護職は、自分の職種の役割がよく理解できていないように思える。



では、特養における看護職の役割とは何か、最も重要だと思うものをあげたいと思う。

それは、「生活上のリスクを見越したアセスメントと、リスクを予防するためのケアの提案」である。

病院(急性期)では、起こった症状にたいして治療をし、治れば退院となるが、施設では長い生活の中で病気や症状を発症する。

生活の中でいきなり症状が現れるのではなく、ほとんどの場合予兆がある。

その予兆を発見し、今後起こりうる症状と、生活の上での注意点を介護職に伝える。

この「症状」には、一次的症状と、二次的症状がある。

例えば心不全の場合、呼吸苦や浮腫、不整脈などが一次的症状、歩行や立位時ふらつきなどは二次的症状と言えるが、二次的症状に関する介護職への説明がより重要となる。

何故なら、二次的症状の方が、事故に繋がりやすいからだ。

ふらつきが生じる可能性から、例えば長距離移動時は車イスを使用したりするなどケアの方法の検討ができる。

特養の場合、病気があっても治療せず経過観察をしている人は多い。そのため、医療職として二次的症状と事故のリスクを繋げて、事前に介護職へ伝え、事故のリスクを減らすケアの方法をカンファレンスで検討することが重要となる。


よく、「介護施設には医療は要らない」という意見も聞くが、そんなことは全くない。

確かに、治療は必要な場合と不要な場合があるが、上に挙げたように、病気のリスクに気づくことでケアを変え、事故や病気の症状を防ぐことで生活の質を向上、もしくは維持することができる。

これを実現できるのが看護職だと思う。



以前の職場の看護師は、病気から今後起こりうる症状やリスクを伝えず、なにかあった時に「なんで気づかなかったの!!」と介護職を罵るような人だった。

確かに、聞かなかった介護職も悪かったかもしれないが、それを事前に伝え、介護職が安心してケアに臨めるようにするのが看護職の役割だ。

そして、リスクを事前に聞いていれば、症状が起きる前の細かな変化を介護職から看護職へ伝え、適切なケアや治療に繋げることができるかもしれない。

役割以上にチームの連携という意味でも、事前の説明は重要になる。

介護職員に介護福祉士国家資格は必須か

介護現場には、介護福祉士資格を持った職員、無資格の職員がいる。

資格の有無は働く上でどのように影響するのだろうか。

資格があった方が加算がどうとか、施設のアピールがどうとか色々あるが、働く職員の視点から考えたいと思う。


まず、「資格の有無は働く上で関係ない」と考える人もいるが、そんなことは全くない。

結論から言うと、働く職員目線で考えても、介護福祉士資格があることは100%有利になる。



その理由としてまずあげられるのは、専門職としての自分をアピールできることだ。

「資格の有無は、知識や技術の差に関係ない」

それはもっともだ。

しかし、そういう話ではない。

家族からしたら、資格保持者と非保持者、どちらの方が安心できるか。

転職面接時、どちらの方が自分をアピールできるか。

同じ技術、知識量なら、どちらの方が有利かは明らかだ。


逆に考えると、資格がなくても自分をアピールできる何かがあれば問題ないことになる。

それは、介護業界での大きな経験かもしれないし、介護職以外の有効な職歴かもしれない。


しかし、資格が無くてもアピールできる何かがあるのは、多くの場合結果論である。

まさか、介護業界で無資格で働いても自分をアピールできるように、別の職業で働こうとは想わないだろう。


つまり、自分をアピールするという意味では、資格を取るのは最も簡単な方法なのだ。


恐らく、資格保持者を良く思っていない人は、この「手軽に自分の価値を高めるという方法」に対して反発しているのだと思う。

しかし、これは介護だけでなく、資格全般に言えることだ。



恐らく、
アメリカに3年留学するよりも英検準2級をとる方が、

難しい漢字をその場で6000字書くよりも漢検2級とる方が、

一般的に手軽という意味では簡単だろう。


しかし、もしかしたら英検準2級所持者よりもアメリカに3年留学した方が、英会話力は高いかもしれない。

そこで「英検準2級持ってても英会話ろくにできないじゃん」という反論はまるで役に立たない。

反論するのならば、言葉でいうよりも英語力が高いことを能力で証明するしかない。



まあ、介護の場合は、同じ介護職員は競うのではなくチームとして協力するべきであるから、この例は必ずしも適切ではないかもしれない。

しかし、資格の持つ意味と聞かれれば、そういうことだと答える。

そして、資格保持者はそれだけで最低限の能力を証明しているという責任を負わなければいけない。

つまり、資格保持者は、常に能力を向上させる義務がある。

そうでなければ、その能力を信じた人を裏切ることになる。

介護に関わらず、資格を取得する際は、その義務を一生背負っていく覚悟が必要になり、

合格と同時に兜の緒をしめなければいけない。

介護を辞めたいと思う新入社員さんへ

もうすぐ6月になり、新入社員にとっては三ヶ月目を迎えることになる。

毎年、この3ヶ月間に早々に去っていく新入社員も多くいるといわれている。

その理由は、もしかしたら、介護が向いていなかったとか、やりたいことと違ったとか、色々なものだと思う。

辞めていく職員だけでなく、慣れない中で頑張っている職員にも、自分がしたいことをするために就職したのに、実際にできていないと思う新人職員も多いと思う。



「自分にはこの分野が向いている」と考え、それ以外の分野には興味も持たない人も多くいると思う。

例えば、
「私はレクが苦手だからデイサービスよりも入所の方が向いている」
「夜勤は辛いから、日勤だけのデイサービスが向いている」
とひたすらに信じている人は、比較的数か月で辞めてしまう傾向が強いと思う。

なぜなら、そう考える時点で、困難から逃げる選択肢しかないからだ。

もちろん、家庭の事情とか、持病とか、やむを得ない理由もあるだろう。

しかし、困難から逃げる癖が付いているとどんな環境でも長続きしない理由がある。


それは、ある分野で一定の経験を積むためには、自分の力で困難を乗り越えなければいけないということだ。


ただなにも考えずに、お金だけもらえればいいやと考えていると、確かに楽だろうが仕事が楽しくない。

仕事を楽しむためには、自分から困難への対応策を考え、実行し、困難を乗り越えなければいけない。


よく、「介護はやりがいがあるから就職先に選びました」という話を聞くが、それは少し違う。

やりがいは仕事についてくるのではなく、仕事を頑張った結果についてくるものだからだ。

だから、
「三ヶ月働いたけどやりがい感じないから向いてないんだ」と辞めていくのは、
「自分はなにもしなくても勝手にやりがいがついてくる」という、極めて他力本願で自己中心的考えだ。

そんなやりがいさえも人任せにしてしまう人間を受け入れてくれる環境が整っているほど、金を稼ぐという意味での社会は甘くないだろう。

仕事をする上でのやりがいを得る為には、自分からやりがいを得られるような働き方をしなければならない。

それは時に苦痛や悩みともなるが、それすらも乗り越えたときに快感となり、やりがいとなる。

その快感、やりがいを、少なからず感じている私からすると、やっと仕事に慣れてきたこの時期に辞めてしまうのは、かなり勿体無いと思う。



とはいえ、「辞めたいと思ってしまったのだから仕方ないだろう」という反論ももちろんあるだろう。

そんな反論に効果的な改善策を提示したい。


まずは、自分が何に対して困難を感じているかを知ることだ。

「辞めたい」と思うということは、少なからず困難を感じているということだ。

それは、オムツの付け方がうまくいかないと言うことかもしれないし、時間内に業務が終わらないと言うことかもしれない。


自分の感じている困難が分かったら、次は職場の尊敬できる先輩にアドバイスを求める。

新人の自分が抱えている問題は、たいてい先を行く人は誰でも感じたことがある悩みだからだ。

もし、尊敬できる先輩がいない時は、SNSを活用する。

介護系の情報を発信している人が多くいるので、その中で「かっこいい」と思える先輩を見つけることも手段の一つだ。


しかし、アドバイスをもらっても問題は解決はしない。
困難の解決するには実践を積むしかないからだ。

この段階になると、根性論もある程度重要になる。
「介護を諦めない」という強い気持ちも大切だ。



これは仕事に限らず、趣味やスポーツにも同様のことが言える。

興味を持ったことを、ひたすら練習を重ね、困難に当たったらどう対処すればいいかを考え、さらに練習する。

そのように練習を繰り返した結果、一流と呼ばれる人になり、
趣味の分野なら多くの人に趣味を広めたい、
スポーツなら大きな大会で優勝したい、など、
初めて「目的」が生まれる。

介護の分野で言うと、
困難を乗り越えて実践を積んだ結果として、
例えば「利用者のためのケアをする」という目的が生まれる。

介護を始めて数か月で、「利用者のための」とか「やりがい」を求めると、それはどんなに出来た人であっても重荷になってしまう。

最初のうちは、目的を考えられるようになるまで、「繰り返し練習をする」ことが、介護のプロになるための第一歩だと思う。

新人教育

はやくも4月が終わろうとし、今月から入った新人職員もやっと笑顔で働けるようになった様子だ。

今日も現場では新人教育が行われていた。



介護現場では、新卒の新人教育はOJTが基本になっているところが多い。

しかし、新卒の新入職員は、座学を基本に教育をしていくべきだと思う。



新卒の職員は、社会人経験も初である人が多いが、社会人としてのルールはOJTで教えきれるだろうか。

家族や来客者への対応や介助方法は、OJT担当の先輩職員の知識や技術力により教育力に差がでないか。


まっさらな状態で現場に飛び込むのと、法人理念に基づく座学を受けたあとに現場に入るのとでは、新人職員の現場の見方は変わるはずだ。


また、適切な教育を受けることで適切な教育方法がわかり、次の後輩が入職したときに、適切な指導をすることができる。

この繰り返しで、職員の技術、指導力の向上に繋がる。


また、新卒職員は最低3ヶ月は経験ある職員につかせる。
ここで言う経験とは、利用者の急変対応の経験だ。

一般業務は、効率のよい職員ならすぐに覚えられる人もいるが、急変対応(事故、状態変化など)は実際に立ち会わないと、適切な対応をとることが難しいことが多い。

一般業務に慣れたと判断して早く一人立ちさせると、急変時に適切な対応ができず、利用者や家族の信頼を失うだけでなく、職員本人の自信の喪失の危険もある。

無限の可能性のある職員が自信を持って働く環境を作ることが、管理者や先輩の義務である。



施設の管理者は、新卒職員を駒のような一人の人員と見るのではなく、
自分で考え行動し、後輩の教育もできる可能性のある「人材」として、時間と手間をかけて教育するべきであり、
それを繰り返すことが施設のレベル向上に繋がることは間違いない。

なぜ看取りを嫌がるか

※看取りケアは、本人と家族の希望のもと、主治医の指示に基づきおこなわれることを前提で読んでください。



人は産まれれば必ず死ぬというのは、よほど小さい子供でもなければ誰でも知っている事実である。
誰でも、死にたくない、と思いながら、その願いは絶対に叶わないことを知っている。

しかし、人の人生の最後の時期をみる介護職ですら、その事実に目を背けている人が多いと感じる。

その理由は、看取り介護を嫌がる介護職員が少なからずいるからだ。


例えば、ほとんどの利用者が後期高齢者の特養の場合、大半の利用者は今日明日に亡くなっても不思議ではない。

しかし、「この利用者はまた明日出勤すれば元気に笑っている」、と思う人は少なくない。
その自信は、どこから来るのだろうか。


私は、要介護高齢者の生活は死を視野に入れて見る必要があると思う。

「今の、状態が落ち着いた利用者」を、「その場かぎりの介助方法」でケアするのではなく、

「今後、状態が低下して最悪の場合今日明日亡くなるかもしれない利用者」を、「今後起こりうる可能性を吟味し、一番本人のためになる方法」でケアすべきである。

すると、自然に「看取り」という選択肢が生まれてくる。


つまり、終わりを視野に入れて、状態悪化も連続性の一部に入れたケアの方法を考えることが、普段のケアに求められる。

看取り終了をケアの完結とし、振り返り、次の看取りに生かす。
介護に終わりはない、というが、介護施設、特に特養では、利用者の人生を華々しく完結させることがゴールとなると私は考える。

華々しく完結させるためには、その場しのぎのケアではいけない。
状態悪化にあたふたしているうちに、緊急搬送となり、そのまま退所となることもあり得る。

そうなると、それこそ自分達はなんのためにケアをしているのかわからなくなる。

病院で最後を迎えるためのつなぎなのか、と。

これほど悲しいことはないが、病院までのつなぎとなっている特養は確実にある。



以前在籍していた、長年看取りをおこなっている特養の介護職員の一人は、利用者が状態悪化で入院になり退所となると、毎回相当悔しがっていた。

「状態悪化の前兆はなんだったか?その前兆にたいしてなにができたのか?」などと、看護師やケアマネを拉致して長時間会議室に籠っていた。

その介護職員は、全ての利用者を自分のケアで看取るという気持ちで業務にあたっていた。

その職員は、介護の最終目的を明確にさせていた。
それは、利用者と家族に、利用者の最高の死を提供することだった。


介護の目的の一つは、言うまでもなく「自己実現」である。
自己実現には、人生の段階によって意味が異なる。

学生には、いい大学に入る、という意味になるかもしれないし、
定年退職後には、仕事があってできなかったことをする、という意味になるかもしれない。

「終わりよければすべてよし」というように、
最後の段階には、最高の形で終わるのも、自己実現の一つではないかと思う。

そして、それができるのは、病院ではなく施設(自宅)であると思う。

みたいケアプランを作る

ケアプランは、利用者や家族からすれば自己実現のために自分の課題を整理しその課題を解決するために必要なことを可視化するのに役立ち、
職員からすればケアの内容やその根拠を理解するために役立つ。

居宅サービス、例えばデイサービスの職員は、
通所プランをみると自分達が行うケア内容が分かるが、居宅プランをみると利用者が使っている他のサービスが分かり、またそのサービスを使う根拠がわかり、利用者の生活全体を把握するのに役立つ。

利用者の生活はデイサービスの中で完結しておらず、
むしろデイサービスの中での利用者は、様々な人やサービスとの関わりの中のほんの一部でしかない。

そのため、デイサービスの中での本人だけをみて本人の性格や生活全てを理解するのはほぼ不可能だ。


居宅プランにしても施設プランにしても、本人をトータル的に捉えたケアプランはサービスを提供する職員には是非見てもらいたい。

しかし、配布されてもカルテにしまわれ、見られることがほとんどないケアプランは少なくない。

もちろんケアプランを見ることが業務の中に位置付けられていればとりあえず見るだろうが、
それは言われているから見るので記憶に残っていない可能性がある。

大切なのは「見たいから見る」プランを作ることだ。

では、どのようなプランであれば見たいと思うか。

みたいプランの特徴はいくつかあるだろうが、
一つのテーマは、意外性だと思う。

例えば、普段無口で静かな女性利用者の生きがいがマージャンで、その事がプランに入っていれば、「試しにやらせてみたい」と思うかもしれない。

そんな意外性は、パターン化されたケアプランには見ることがほぼできない。
性格や生活歴、職歴や趣味特技などを詳細にアセスメントした結果として、プランに取り入れることができる。

この意外性は、施設よりも在宅のケアプランで取り入れやすいと思う。
利用者の表情や話す頻度などは、家にいるときと外にいるときで違うことが多いからだ。
私たちでも、外で他人の中にいるうちは多少かしこまって、猫を被っていることも多いのだから、特に慣れるのに時間のかかる認知症の利用者ならなおさらである。

そこで、通所サービス、訪問サービス、入所サービス(ショートステイ)を利用するなかで、それぞれの事業所で本人にどのような違いがあり、
本人のニーズを満たすために、その違いに対してどう対応するかを検討しプランに取り入れることが必要だ。

本人が自宅にいるときが一番本人らしさが出ているならば、通所入所サービスでどういうケアをすれば本人らしさを引き出せるのかを検討すべきである。


その、自宅にいるときの状態に、通所、入所事業所職員は意外性を感じるかもしれない。

意外性を感じると、その情報は記憶に残る。
そして、意外性のある情報をプランから得たと記憶されると、またプランをみたいと思うかもしれない。

そのような聞いて面白い情報は、利用者が全員持っていると思って間違いない。

更新の度に、意外性のある情報をストーリー性を持たせてプランに入れられるとなお良い。

なにより、更新の度に利用者本人のことを知ることができる楽しさと、それをケアプランを通して各事業所に伝えるという楽しさがある。

面白い情報を取り入れたケアプランは、見る方も作る方も楽しめると思う。

合理的配慮

2016年にできた障害者差別解消法により、障害者一人ひとりに合わせた「合理的配慮」が、雇用主や行政の義務となった。

努力義務ではなく義務となったのは、障害者当事者にとってはとても大きい。

ただでさえ障害者は生きる上で弱者になりやすいため、障害者が地域で生きる権利を法律が保障するための枠組みづくりという意味では非常に効果があるものだろう。

しかし、「枠組み」を作るだけで、問題は解決するだろうか。

言い換えれば、枠組みを作ればそれだけで障害者は雇用主や行政から合理的配慮を受けられるのだろうか。

現状を見てみると、とても合理的配慮がなされる状況ではないところが多いように思える。



「合理的配慮」を行うことは法律で決められた義務であるということは一度置いておいて、
合理的配慮を行う、受けるためにはどういう条件が揃うと可能になるのか。

例えば雇用契約上では、
雇用主の「理解」と非雇用者(障害者)の「申し出」が必要であると考える。

まず、雇用主の「理解」とは、
具体的に、これから雇う障害者はどのような不便があって、それが業務上どのように問題となるのか、それをどのように解決するか(会社内の資源の活用、外部のサービスの活用)を検討する必要がある。

そのために、非雇用者(障害者)側は、自分の障害と、その障害が働く上でどのように影響するかを詳細に伝える必要がある。


このやり取りの過程の中に、障害者への「合理的配慮」がなされにくくなる原因があると考える。

つまり、
雇用者側は、障害の特徴の理解と、障害ごとにどのようなことを留意するべきかを知識として持っている必要があるが、
それの実現方法は企業に丸投げ感があり、一般企業が障害の理解を企業努力のみで向上させようとしても限界があることは明らかであり、

非雇用者側は、業務の内容を把握し、障害が業務にどのように影響するかを、自分で詳細に伝えることは難しい場合が多い(特に知的、精神障害者)。


このような原因を無視して、国や障害者が企業に対して「障害者差別解消法に基づき、合理的配慮を!」と一方的に主張するのは根本的な解決にはならない。

この問題を解決するには、医療福祉専門職が間に入って就職支援をする仕組みを、制度として作ることが重要であると考える。

専門職であれば、障害者の障害を詳細に把握し、その障害が業務上どのように問題となるかをアセスメントして企業・障害者本人と解決方法を模索し、雇用契約まで見届けることができる。
専門職として、障害の理解がない企業に対して個別に理解を促すこともできる。

さらに定期的にモニタリングをし、新たな問題が出てきても、本人・企業・専門職で解決する仕組みを作ることで、障害者、企業が安心して雇用契約を続けることができるのではないか。


いくら法律で企業側に「合理的配慮」を押し付けても、それは企業側の混乱だけで問題解決には至らないかもしれないし、それならと重度の就業希望の障害者が面接を門前払いされることにも繋がりかねない。

社会の中で弱者になりやすい障害者と、企業の間に専門職を入れる仕組みをつくり、両者が対等なやり取りができる環境を国が作ることが、ノーマライゼーションの社会づくりのためには重要なことだと思う。