ケアマネージャーが思うことを呟いていくブログ

現職ケアマネ、前職社会福祉士、介護福祉士が福祉、医療、その他興味があることを書き捨てるだけの自己満ブログ

なぜ看取りを嫌がるか

※看取りケアは、本人と家族の希望のもと、主治医の指示に基づきおこなわれることを前提で読んでください。



人は産まれれば必ず死ぬというのは、よほど小さい子供でもなければ誰でも知っている事実である。
誰でも、死にたくない、と思いながら、その願いは絶対に叶わないことを知っている。

しかし、人の人生の最後の時期をみる介護職ですら、その事実に目を背けている人が多いと感じる。

その理由は、看取り介護を嫌がる介護職員が少なからずいるからだ。


例えば、ほとんどの利用者が後期高齢者の特養の場合、大半の利用者は今日明日に亡くなっても不思議ではない。

しかし、「この利用者はまた明日出勤すれば元気に笑っている」、と思う人は少なくない。
その自信は、どこから来るのだろうか。


私は、要介護高齢者の生活は死を視野に入れて見る必要があると思う。

「今の、状態が落ち着いた利用者」を、「その場かぎりの介助方法」でケアするのではなく、

「今後、状態が低下して最悪の場合今日明日亡くなるかもしれない利用者」を、「今後起こりうる可能性を吟味し、一番本人のためになる方法」でケアすべきである。

すると、自然に「看取り」という選択肢が生まれてくる。


つまり、終わりを視野に入れて、状態悪化も連続性の一部に入れたケアの方法を考えることが、普段のケアに求められる。

看取り終了をケアの完結とし、振り返り、次の看取りに生かす。
介護に終わりはない、というが、介護施設、特に特養では、利用者の人生を華々しく完結させることがゴールとなると私は考える。

華々しく完結させるためには、その場しのぎのケアではいけない。
状態悪化にあたふたしているうちに、緊急搬送となり、そのまま退所となることもあり得る。

そうなると、それこそ自分達はなんのためにケアをしているのかわからなくなる。

病院で最後を迎えるためのつなぎなのか、と。

これほど悲しいことはないが、病院までのつなぎとなっている特養は確実にある。



以前在籍していた、長年看取りをおこなっている特養の介護職員の一人は、利用者が状態悪化で入院になり退所となると、毎回相当悔しがっていた。

「状態悪化の前兆はなんだったか?その前兆にたいしてなにができたのか?」などと、看護師やケアマネを拉致して長時間会議室に籠っていた。

その介護職員は、全ての利用者を自分のケアで看取るという気持ちで業務にあたっていた。

その職員は、介護の最終目的を明確にさせていた。
それは、利用者と家族に、利用者の最高の死を提供することだった。


介護の目的の一つは、言うまでもなく「自己実現」である。
自己実現には、人生の段階によって意味が異なる。

学生には、いい大学に入る、という意味になるかもしれないし、
定年退職後には、仕事があってできなかったことをする、という意味になるかもしれない。

「終わりよければすべてよし」というように、
最後の段階には、最高の形で終わるのも、自己実現の一つではないかと思う。

そして、それができるのは、病院ではなく施設(自宅)であると思う。