障害者=可哀相?
ここ数年で、出生前検査が知られてきている。
出生前の時点で、ダウン症などの生まれつきの疾患が分かる、というものだ。
そして、それを望む人も少なくない。
もちろん、そのような制度があり、それを希望するのなから、検査を受けるのに躊躇う必要はない。
しかし、なんのためにその検査を受けるのか、というのは、夫婦または親族間でよく話しておくべきだろう。
個人的に、検査を受ける理由として一番納得ができるのは、「障害を持った子供を育てる自信がない」というものだ。
育てる自信がないことから、育児放棄や虐待など子供や親にとって辛い将来が待っている可能性がある。
もちろん、そのような将来にならない可能性もあるが、これをある種のリスクマネジメントととるならば、出産を避けるというのも選択肢の一つだろう。
一方別の理由として、「障害を持って生まれてきた子供が可哀相」というのもよく聞く。
しかし私は、声を大にしてそれは間違った考えだと言いたい。
はたして障害を持ったらその時点で「可哀相」なのだろうか。
では逆に、健常者であれば自分の存在や将来に悲観的にならないのかと聞かれれば、そうではないだろう。
環境や条件は同じようでも、一人ひとり受け取り方次第で、ポジティブにもなればネガティブにもなる。
つまり、可哀相かどうかは、まわりが決めるのではなく本人が決めることである。
私も、それほど大きなものではないが、生活や仕事でやや不便を感じる障害を持っている。
しかし、それだけで他人から可哀相と言われる気はない。
なぜなら、私は障害者として、健常者には絶対に見ることのない景色を見て生きているからだ。
普通なら経験しないことを生まれながら(私の場合は物心ついてからだが)経験している。
経験の差は視点の差になり、気付きの差になる。
この差は、専門職として非常に大きい。
そして、私は決して少なくないこの病気の知識に関しては、当事者としてこれ以上なく持っている。
これだけみても、障害を持って生れただけで、私の方が健常者よりも優位に立つことができている(別に競うものではないが)。
しかし、私と同じ障害を持つ人の中には、障害をもつだけで生きる価値がない、生きていても仕方がないと思って自ら命を絶つ人も少なくない。
私も当事者として、「それは間違っている」とは絶対に言えないし、自分も何かが違えばそうなっている可能性がある。
では、同じ障害を持っていても、ポジティブ/ネガティブに生きることの差はどこにあるのか。
これは障害にもよるので一概には言えないが、
「できることを活かす環境」が重要なのではないかと思う。
そして、周りの人や専門職は、その部分で本人が生きやすいようにサポートする必要がある。
障害があっても、もちろん重度にはよるが、居場所は探せばどこにでもある。そして、既存の居場所が無ければ、作ることもできる時代である。
しかし、障害者個人では、その情報を集めることが難しいかもしれない。
そこで、様々な角度からの情報を支援者が集め、本人に提供する。
障害者によっては、支援者からの直接的支援よりも、情報の提供などのような間接的支援が重要な人もいる。
そして、間接的支援により本人の持っている力が生かされれば、自立支援に繋がりやすい。
支援を受けながらもいきいきと自律した生活を送っている障害者を、可哀相と思う人は少ないだろう。
多少の生きづらさはあっても、それは健常者であっても同じことで、その生きづらさを感じながらも自律した生活ができるようになる人も多い。
今後、「出生前検査をして、障害を持って生まれる可能性が高いと診断された。それでも自信はないが頑張って育てたい。」という人がいたら、
「本人が生きやすい環境や居場所をつくってあげてください。そのための親の労力は大変ですが、その子はポジティブに生きることができるかもしれません。」と言いたい。
もし壁にぶつかったら、社会福祉士などの専門職を活用してもらいたい。
障害者の居場所はまだまだ少ないのが現状だが、障害者=可哀相という間違ったイメージが無くなるまで、自分ができることを考え、実行していきたい。